旗本退屈男はいつも〇〇だった

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旗本退屈男はいつも〇〇だった

旗本退屈男は〇〇だった

 「旗本退屈男」シリーズの魅力としては、まず何よりも市川右太衛門の殺陣の美しさにあると言えるでしょう。
 早乙女主水之介の剣の流儀はご存知「諸羽流正眼崩し」歌舞伎の世界に生まれ育っているため、幼い頃から日本舞踊を学んでいたこともあり、右太衛門の華麗な剣さばきは舞を見ているかのようだと言われていました。

 早乙女主水之介は、身によっぽどの危険が迫らなければ、刀すら抜きませんでした。扇子や当て身で戦うだけです。

 作家・橋本治(1948~)は 「(退屈男における)立ち回りとは、決闘シーンとして解釈されるよりも、ミュージカル映画におけるダンス・ナンバーであると理解したほうが正解なのです」と語っています。

 ダンス・ナンバーだと考えれば、リアリティではなく様式が重視されていることにも納得がいきます。

 多勢の敵に取り囲まれながらも、主水之介は見得を切ります。これがまたカッコいい
「人呼んで退屈男。天下御免の向こう傷。それではしかし初対面のお手前方には通りが悪かろう、よって名乗る。姓名は早乙女主水之介…」。
 思わず、「待ってました!」と声をかけたくなります。

 「旗本退屈男」は衣装の多さにも特徴がありました。最多は300本記念作品「旗本退屈男」(1958年東宝)での計13回。次いで「謎の大文字」(1959年東映)の12回と記録されています。

 こうしたことから、「早乙女主水之介が、洞窟の前で切り結びながら中に入って行き、出て来た時は別の衣装を着ていた」という伝説ができたほどです。
 確かに映画館の中ではため息が聞こえていましたよ。

 初期の頃は、映画会社のほうで衣装代をまかないきれなかったため、右太衛門は「日東一商事」という会社を作り、衣装の製造と保管を任せていたそうでして、右太衛門は映画の中で一度来た衣装は二度と使わなかったそうです。

 後年、TVで息子の北大路欣也が「旗本退屈男」を演じた時に、竹の柄がついた着流しスタイルを見た時、あっ、と声をあげました。父歌右衛門が映画の中で着ていたものだったからです。懐かしかったですね。

(参考:佐々木味津三「旗本退屈男」1975年 廣済堂出版)
 

 
 「退屈男 中仙道を行く」は1936年の作品です。

 

中仙道を行く退屈男(無声映画)です

 市川右太衛門が最後に主水之介を演じたのは、1963年の「謎の龍神岬」(東映)でした。

 右太衛門の最後の出演作はその翌年の「忍び大名」(1964年東映)です。この時右太衛門はまだ56歳でした。

 彼が取締を務める東映は、時代劇から任侠映画に路線を変更したのです。しかし右太衛門は自分は時代劇の役者だからと現代劇には出演せず、自分の美学を守ったのでしょうね。そのため映画出演も途絶えるようになって行くのです。

 このあたりは先にご紹介した片岡千恵蔵とは対照的ですね。

1966年に「取締役を若手に譲り、相談役になっていただきたい」と打診された右太衛門は、「時の流れですな。」「(これ以上ここにいれば)フリーで活躍している息子の(北大路)欣也を東映に縛り付ける事になると考え、東映を退社することとなりました。

 
(参考資料:佐々木味津三「旗本退屈男」1975年 廣済堂出版)
 

旗本退屈男「謎の蛇姫屋敷」

 
 この昨品は配給社の都合で削除されました。

 申し訳ありませんが、旗本退屈男・早乙女主水之介がニ刀流で戦った後の、納刀の仕方を演じた珍しい演技をご紹介します。

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